二学期はじまりましたね

 

 

 

学校が合わない子、勉強しても伸びない子、そもそも今までの勉強習慣が無かった子。千差万別に悩みを抱えた生徒さんがいらっしゃるが、塾では小手先のテクニックを教えるのではなく、「自分で気づく」ということを大事にしている。

 

これを塾では「予期せぬ自発性」と呼んでいる。塾という場所は勉強することが自ずと目的となり、我々も含めお節介な大人たちは、子どもに良い学歴をつけることを気にせざるを得ない。勉強をし良い学歴をつけることの目的ってなんだろうか。これは突き詰めていくと、自立することを意味し、さらに追求すると、社会に適応する、ということに集約していくような気がする。

 

しかし生きていくことは楽しいこともあるが過酷なこともある。苦労しないように、どんなに素晴らしい経歴・知識・環境を用意しても、90年と言われる人生の内、多かれ少なかれ苦悩することは出てくるだろう。コロナウイルスが物語っているのではないか。不安はどんなに準備していってもなくならない。

そしてその苦悩は、類型はあれど、みな感受性がそれぞれなのだから、やはりその人自身のオリジナルな悩みになっていくと思う。悩みに対する模範解答はあっても、その人自身の答えは用意されていない。

 

私が重視しているのは、タフに生きる力なのである。学歴ではない。学歴は人生の切符としてついでに取っておくという考えである。

 

最初は、塾を開くにあたり、生徒さんの悩みや課題に対して、よく聞き、それに応えていきたいと思っていた。このコンセプトが良いなと賛同していただき、通塾してくださる生徒さんも増えてきた。

私もこのコンセプト自体はとても気に入っているけれど、生徒さんと勉強していく中で、大人の私達はどうも、あれこれ与えすぎる傾向にあるなと気づいた。

大人がどんなにいいと思った勉強法や問題集、解決策。こうしなさい!○○しなきゃダメ!というような言い方は一度もしていない。どちらかと言えば、「我々はこう感じるのだけど、○○さんはどう思いますか?」というような提案型で問う方法を取っている。しかし暗に静かな圧はこどもに伝わっているような気がするし、こども自身が咀嚼していないのに、果たして効果はあるのだろうか。

 

そもそも「宿題をしなさい」「静かにしていなさい」「この問題集はどうかな?」と促して、受け答えが出来実行し続けるお子さんというのは、あまり問題がないような気がしている。

促しても取り組むことが難しいお子さんは、手を変え品を変え、がんとしても動かない。変わらない。与えてもあまり良い活性化に繋がらないのである。そう気づいてからは、「予期せぬ自発性」を大事にしようと決めた。

 

では「予期せぬ自発性」とはいつ養われるのか。早く気づいて勉強してもらいたい。

こういう話になってくるとは思うが、生徒さんがいつ、自分で気づくかなんてわからない。塾に来てくれている期間なのかもしれないし、塾をやめてからなのかもしれない。子ども時代ではなく、成人してからなのかもしれない。

 

「じゃあ先生、いつ効果があるのか分からない塾なんて意味がないじゃないですか?」と、親御さんからツッコミを喰らいそうな気がする。

しかしそれでもなお、我々大人が与えるよりも「自分で気づいて自分に提案し行動する」ことの方が成績はおろか、生きていく力がついていくと私は思っている。

では、「気づく」という方向に持っていくにはどうすればいいのか。どのように養えばいいのだろうか。

言葉にするととても陳腐で非常に恥ずかしいけれど、それは「愛された経験」だと思う。親御さんだけではなく、違う方向から見てくれる大人からも愛され、リラックスした環境で勉強できることは、心の栄養に繋がると信じている。

心の栄養は自分で進んでいく力を加速させ、リラックスした環境は良いアイデアが生まれる。そして、適度に放置することである。放任主義なのではない。「適度に」放置することが重要なのである。この、どのくらい「適度」なのかを見極めることに必要性を感じている。放置は待つに繋がり、待つは「生徒さんを信頼している」ことに繋がっていく。

 

「メソッド与えないなら塾として何にもしてないじゃないですか。」とまたまたツッコミが来そうであるが、今までの塾・学校が合わなかった子にとって、ただ「辛かったねぇ」「あなたはそのままで素晴らしいし生きていけるよ(嘘八百、社会のシステムで悩み生き難いと思ったから塾に来ているのである)」と手放しで言うのではない。社会への耐性をつけつつ、生徒さんそのものを受けとめていく。この二つを両立させるには、矛盾や葛藤が生じ、リラックスした環境を作ることの難しさを日々痛感している。

 

それでも「予期せぬ自発性」を興すためのテクニック的なものを敢えて言うのなら、整理能力と積み上げ能力をつけることではないかと考えている。

育児本に書いてある「こどもに靴を揃えさせる習慣をつけなさい」というようなことって正直、昔は馬鹿馬鹿しいと思っていた。靴を揃えたり、カバンの中身が綺麗だとか、部屋が綺麗な方がもちろんいいとは思う。しかし、そんな上辺のことではない。頭が整理されていることは「気づき」をおこしやすく自発的な思考を産む。頭が整理されていることは、自分の周辺環境が整理されていることと、相関関係が「それなりに」あるというだけである。

頭が整理され思考の起点がある人は、何を与えられてもそれなりに対応できるが、そうでない人はどんなに良いリソースを与えられても、ただただ物や事に埋もれ取り残されていく傾向にある。そのためにも、適宜大人の我々が、与えすぎないことの見極めが大事だと考えている。

そして積み上げ能力に関してであるが、公文や学研のような教材ってあまり思考を産まないなと、これもよくない印象があった。しかし小学生の生徒さんを見ていると毎週2回程通い、ひたすら練習問題を解き続ける。単純・退屈なようで、侮れないなと思っている。少し難しい量をこなせる習慣は、考え「続ける」習慣にも多少は繋がっているような気がしている。仕事にせよ勉強にせよ、まじめに机に座り続けた時間ではなく、考え続け試行錯誤した時間の方が大事なのである。なので、塾では「◯◯さんはどう思う?」と大人からすると正解ではないことでも、いくらでも意見してもらい、考える時間を作っている。お母さまと打ち合わせするのではなく、こと中高生に関しては自分の意見を求められる塾なのである。こう考えてみると、少しうざい塾だなぁ

 

整理能力・積み上げ能力にしても生徒さんの性格や状況を見て、考え一緒に取り組んでいるが、必要だと判断した場合は、実行機能のワークを提案することもある。

 

http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/sa/0928.html

 

 

社会の時間軸ではなく、自分の時間軸で気づくこと・目覚めることを河合隼雄は「自熟の時間」と呼んだ。私もこの自熟の時間が何よりも大切だと思っている。

ただ時間は否応に過ぎ、社会は待ってくれないこともあるし、親御さんだって痺れを切らすことだってある。お子さんが産まれた時は「のびのび育ててやりたい」と思っていたが、子育てにおいて、成果成熟に繋がりにくいと悩んだり焦ったり、時に激昂することは、自然な反応だと思う。しかしお子さんの自熟の時間が起こりそうな時に、親御さんが痺れを切らしてしまい、機会が絶たれそうになることが、私はどうしたって悲しい。それもその子の人生で、挫折やすれ違いも人生の一興だと思う一方、仲介役として少しは役に立てれたらなと思っている。それだけ待つということはとても大変で、イライラし、辛いことだと感じている。

こう書いてみると、我々が生徒さんに対しできることは、見守ることくらいしかできないのかもしれないが、我々も汗をかきながらの見守りと、リラックスした空気の中で生徒さんとの時間共有を大事にしたいと思う。

2学期も体調に気をつけて、泣いたり笑ったりしながら一緒に過ごしましょう。

 

 

 

 

 

塾の和室は光がさすととても綺麗です