温かくなりましたね




今日は塾での自分のことを書こうと思う。


私も、塾では生徒さんに「先生」と呼ばれてはいるが、実際には勉強は教えておらず、主に塾での運営のことを考える役割にある。(運営といってもそんな大したことはないけど)

他には、実際に勉強を教えている先生から生徒さんの様子を聞いて、これからどういうふうに勉強していくのか、生徒さんには勉強以外のことも含めてどういうことが必要なのか、などの方針を考えている。 


私自身は、子どもの頃、大人が決めたことに関して、たくさんの疑問があったし、嫌なことも多かった。そして、どちらかと言うと一つ一つのことに思い入れを持ちやすいタイプなので、親御さんがお子さんを想う気持ちをトレースして、できる限り、生徒さんを大切にしたいと思っている。

なので生徒さんと親御さんの両方の立場をすり合わせて、俯瞰しながら、細かいケアの方針を考えることはどちらかといえば、得意な方なのかもしれない。


しかし、少数であるが、生徒さんの授業を持たせてもらっており、その時に痛感することが、「自分の余裕のなさ」なのである。

生徒さんと対峙すると、苦手なことは避けたがるし、ここで勉強を進めたいのになぁ〜とこちらが思っていても、机から立ち上がったり、授業とは関係ない話をしたがることも多い。自分とは全く違う部分にも驚く。それに対して、心の中で冷や汗をかいてしまうことも多い。


これから塾を続けられたとして、たくさんの生徒さんを教えて経験を積むと、この「余裕のなさ」はなくなるんだろうか、と言うとそうでもないような気がしている。

生徒さんがどんな所でつまづいたり、嫌がったり、逆に喜んだりするかはみんな違うので、程度は軽くなってもあたふたする場面はなくならない気がする。


つまづきや挫折の場面では、その場面を「転じさせる」ことが大事なような気がしており、つまづいたから駄々をこねたからと言って、頭ごなしに怒ったり、つまらない言葉掛けをして、こちらも真っ向勝負するようなことをするのは、お互いのために良くないと思う。怒りたくなる時もあるけれど。

知覚が十分に発達しきれていない子どもにとっては、もしかしたら言葉がより世界を構成し、縛ることもあるのではないかと思う。

子どもが思っていなかったような展開に持っていったり、子どもの知らない代替え案を何個か知恵として持ちそれを使って、世界の切り替えをしてあげることが大人の役目なような気がする。


かと言って、子どもや親御さんにとって塾の時間なんて、多い子でもせいぜい週に34時間なので、親御さん目線からのやりにくさ、又は子育ての楽しさが、分かるのか?というとそうでもないと思う。むしろ別物のように思う。


ただ、私自身は、塾という持ち場で、何かを実感するよりほかはないし、勉強ができたとか成績が上がったというよりは、爽やかな気分になったり、何かしらの充実を感じて欲しいなと思う。そして親御さんにとっての環境の空気穴のような存在でありたいなと思う。


先に書いたような、世界を「転じさせる」、と言うのは、不確定なことに向き合って経験値を上げていくことが必要な気がする。特に不器用で賢さもない、私のような人間は。

不確定な状況に身を置いて、マニュアルも答えもないようなことに取り組む自分は、いつも恥ずかしくて不恰好だ。


今までスムーズに生きれず、ぶつかるもの一つ一つに痛がって泣いてきたので、悩む時間やメソメソした時間も多かったけど、悩んだ先に、新しい世界が広がる経験が何回かある。今現在、自分のことでも、そんなに器用に立ち回れてるわけでもないし、むしろ自分自身に困ることも多いが、次は、「誰か」と世界が転じていく、変わっていく経験をできたらなと思う。


「誰か」との世界は、大人になればなるほど、どこか冷めた世界感や淡々とした対応にもなりがちだけれど、それを経験した上で、冷静に、時には自分自身も興奮しながら、誰かとの世界を共有できたらいいなと思う。


そして、そういう時間を与えていただいたこと、周りの方や環境に感謝したいと思う。