先日の事件について

 

 

生徒さんのお母さんから「定期試験の点数が上がらないんです」とよく相談される。初めて塾に来た生徒さんへ、目標を尋ねると「定期試験の自己平均点を上げたい」と答えることがある。なんなら、こちらの力不足で定期試験の成績が上がらず、塾を辞めてしまった生徒さんもいる。

定期試験に向かって目標を持ち、計画を立て、習熟度を見るということは、勉強だけではなく生徒さんの心身の発達や生活リズムを見る目安でもあり、私達もある程度は重きを置いている。

しかし、やはり定期試験に関してのご要望を聞くたびにいささか複雑な気分になるのも事実なのである。

なぜかというと、短期的な数値を判断材料に使うことに少し抵抗があるからだ。定期試験の点数が、進学や収入に繋がっている「かのように」無意識のうちに感じてしまうし、不安の払拭にもなっているように思う。我が子のことは親御さんが一番理解し一番見ているのも事実だけれど、客観的な判断材料に目がいくのも、きっとそうなのだろうと思う。

 

しかし、上記のような「定型のルート」から外れてしまうと何が待っているのか。なぜ問題提起するのかというと、そこから外れてしまった、最悪の場合、先日の事件のようなことが起こるか、あるいは、自身の命を落としてしまうことがあるからだ。

 

「みんなと違う」。昨今はこれを個性と呼び、良いとする見方もあるし、生きていると「みんなと違う」という疎外感を誰もが、時に悩んでしまうこともあると思う。

ただ、ここでは心理的な「違う」ではなく、社会的に身体的に「明らかに違う」ということに焦点を置いて述べさせていただく。何が起こるのか。

 

私自身の陳腐でありふれた例を出すことに、とても申し訳なさを感じるのだが、私は15年ほど前まではいわゆる「定型のルート」を歩んでいた。しかしひょんなことから、少し、脱線することになった。初めは「それも個性」と思ったし、みんなと違ってかっこいい、とさえ思っていたが、社会的に崩れ落ちていく自分を見て、プライドはズタズタになり、心も体も崩れていくことになる。

 

まず、「自分で稼ぐ」お金がない。お金がないと誰かに支援してもらわないと生きていけない。誰かに支援してもらうと、支援者の庇護下にいるので、ライフイベントのようなことも自己決定権は100%はない。特にお金の必要なことは、絶対に自分では決めれない。私はその時、自立することの自由を痛感した。お金なんて大事じゃない、心が大事、と言う人もいるだろうし、確かにそうなのかもしれない。でもお金がないとしんどい時にタクシーすら乗れない。なんだそんなことと思われるかもしれないが、しんどい時に徒歩で目的地に行く、これは苦痛と言えば苦痛なのである。世の中には、身体の辛さだけでなく、それと相まって自分以上に遥かな不便を強いられている人がいることを知った。

 

そして、自分の状況を説明することの難しさ。「いわゆる」社会生活をしている人達は、意識すらしていないかもしれないが、世の中には色々な立場がある。会社員、役員、学生、父、母、先生。あったらあったで悩み苦しむものでもあると思うが、自分を説明する社会的立場も、自分の不便さや苦しみを説明できない「共通言語」がない心細さ。

しかも、その自分の苦しみや立場のなさを、理解のないステレオタイプや自己責任、スティグマで片付けられるのは、堪ったものではない。泣きっ面に蜂とはこのことのように思う。

 

しばらく、このことについて、怒りを感じていたが、もっと本質的なことを辿ると社会的立場の有る無しや、苦しみを理解してもらうことは、そんなに重要なのではないのだろうと思う。

誰かと何かしらをシェアできないことが辛いのだ。表面的なことはいくらでもSNSでシェアできるけれど、きっと、人は自我のひとかけらでも、分かち合えないと居心地悪く感じてしまう生き物なんだと思う。自分が外に向かって風通しがないこと、そして社会も受け入れてくれる土壌が少しでもないこと、これが一番苦しかったのである。

 

では、外れてしまった場合、社会的な名前をもらったり、少しでも一人の人間として受け入れてもらうにはどうすればいいのか。

それは、社会の支援だとか、みんなが優しい気持ちを持って受け止めるとか、そう言ってくれる人もいるのかもしれない。

 

しかし今の社会のシステムとして完全にはそうはなっていないし、自身の気持ちとしてもそれを完全には受け入れきれない部分もあると思う。そしてシステム化すればするほど、サービス化すればするほど、制度からこぼれ落ちる人は出てくるし、ケアをする側も疲弊してくるのが現実のように思う。

 

見も蓋もない言い方をすれば、家庭に恵まれており「かつ」自分で這い上がるくらいしか、社会的立場を回復するには、

この二つの条件しか、私は思いつくことが難しい。

家庭に恵まれているだけで、なんとかなったと言う人もいるかもしれない。そして恵まれてなくても自分で這いあがったと言う人もいるかもしれない。

しかし、恵まれた環境をどう活かすかは、選択と決断をするだけの頭脳がいるし、這い上がるには自分のキャパシティを超えた労力がかかることも多い。そのような条件が揃い、努力できる人ばかりだろうか。

外れてしまった人にとっては、あまりにも厳しい世の中である。

 

世の中、生きていくにはお金が必要である。でもフォロワーやお金を稼げば稼ぐほど、評価され、重宝され、反対であると、軽視される傾向にある。それは自分達の首を絞めてしまうのではないか。数値で人を決定することに限界が来るということも、今回の事件は物語っていたのかもしれない。

 

私たちの塾では、ゲームや工作などのリクリエーションを長期の休みごとにやっているが、正直それは数値の世界ではする必要のないことである。なぜなら、その時間があるならば、授業のコマ数を増やして収入を増やせばいいじゃない?という結論になる。

では、こども達に教科学習だけさせておけばいいのかと言うと、そうは思わない。

 

我々がなぜ、こどもの数値に現れにくい成長や成果、定期試験に留まらない知性に拘るかというと、それは「創意工夫」のある人生を歩んでほしいと思うからである。塾に来てくださっている保護者さんからは、「この先生、面談の時間長いな」「連絡多いな」と面倒に思われているかもしれない。でも、転がり落ちていきそうな予兆を逃したくないし、成長する芽も摘み取りたくないのである。

じゃテストなんてどうでもいいかと言うとそうではない。テストを通じて、脳を鍛錬することは、まずゲームとしてもおもしろいし、複雑なこと・答えのないことを考える体力に繋がるし、学んだことを他の分野に応用することは、違う立場にある人を想像する一歩でもあると思うからである。

 

「創意工夫」のない人生は本当につまらないと私は思う。どんなに暗い状況でも、具体的にも概念的にも創意工夫できる知性は、ほんの少しでも自分を照らしてくれる道しるべになると思う。

だから、塾では、勉強も大事だけど、勉強だけじゃない。結果も大事だけど、結果だけでない。お金や学歴もある程度は必要、でも大したことではない。この態度を示し、説明することが非常に難しい。ダブルバインドにもなりかねないので、慎重に時間をかけて声かけをするようにしている。

 

そして行き来しやすい世の中であってほしいし、色々な立場を自由に堂々と行き来できる人であるといいなと思う。

社会的責任の大きい人であっても、いつでもニートやひきこもりになっていいし、逆にニートやひきこもりの人が突然勉強したり、働いてみようと軽い気持ちで思えるようになってほしい。実現は難しいかもしれないが、何もしないこと、何もないことを恥ずかしいと思わないでほしい。そんなつまらないことを恥ずかしいと思うのなら、創意工夫しないことを恥ずかしいと思ってほしい。

 

だから自分自身も、これからも、休んでみたり、働いてみたり、遊んでみたり、寝込んでみたり、勉強してみたりと、どっちつかずの不埒な人間の手本であろうと思う。不埒な人間を1人きりでもいいから、まずは始めようと思う。

 

社会から外れてしまった人に対して、差別を無くすにはどうすればいいか。これはきっと簡単には、なくならない。私自身にも差別する心は無意識にも意識的にも存在はしていると思う。逆差別だって知らないうちにしているのだろう。

でも、反芻しモヤモヤとした心が詰まってしまった時はなぜか、しつこくは考えた方がいいのかな、と思っている。

昨今、明るく悩まずご機嫌に暮らすことが良いとされているが、モヤモヤを冷静に眺め、じっくり考える大切さが少し軽視されているように思う。それこそが私は知性だと思っている。

 

犯人は宗教団体に恨みを持ち、犯行を起こしたと今のところ、報道されている。宗教って怖い、というような意見が多く持ち上がっているが、私からすると、アイドルのCDを買うために行列を作っているのも、ある意味、宗教的だな、と思う。私自身、先日、欲しい作家さんのお皿の販売整理券を買うために、Instagram30分前から開き待機していた。この盲目的な熱意も、また、ある意味、宗教的だと思う。人間、誰しもがうっすらと、怖いものを背負って生きているという見方をすると、関係のない人であれ、みんな共通するものがあると思いませんか…。少なくとも、自分のスティグマや侮蔑の気持ちを見つけた時、私はアイドルのCDと作家さんのお皿のことを思い返そうと思います。



被害者その他、関係者の方々、謹んでお悔やみを申し上げます。