高学年算数は難しい


塾には小学生の生徒さんも来てくださっているので、取り組んでいる算数を見せてもらうと、「高学年の算数って難しいなぁ」という印象を受ける。
いきなりだが、次の問題を見てほしい。




これは小5の標準問題集から抜粋している。

(1)は分かる人が多いと思う。(2)からはどうだろうか。以下、解答です。





(2)以降、全部、小さい数÷大きい数をしないければ答えは出ない。

また(3)(4)に関しては問題文ですらスッキリしないなぁと言う人もいるのではないだろうか。


日常生活の割り算において、小さい数÷大きい数を行う場面ってたくさんあるのかというと、あんまりない。

芋掘りに行って8つ芋が掘れたから、近所の田中さんと鈴木さんと山田さんと自分で分けようとした時、8つ÷4人=2つだね、というぐらいの割り算ならよくするが、先程の問題のような割り算をする機会はあまりないだろう。

私は大人なのでこのような問題を解く際、経験を引っ張り出し、イメージして、解くことができるが、初めて直面する小学生達はどうだろうか。なかなか難しいな、と思うのである。

ということで、この高学年算数に関しては、もちろんできるようにはなってほしいが、完全に分からなくてもいいと、生徒さんには言っている。むしろ、こんな感じか〜と分からないなりに触れてもらうことが第一だと思っている。

大人である我々と子どもの間にある大きなちがいは何かというと、私は「相対化」にあると考えている。子どもの時は、そんなもんやと思いながら過ごしていたことが、大人になってから、あれはひどかったなとかあれは恵まれていたな、と何十年後になって意見が出てくることがある。それは、大人になって色んなものを見聞きし、その情報をまとめ、自分の状況を相対化して見れるから自分なりの意見がでてくるのである。中年になると、多弁になる人がいるが、それは経験から色々な意見がでる所以であろう。

また、スイスの心理学者、ジャン・ピアジェによれば、低学年の時に他者の視点を取り入れ始め、高学年の時に抽象的な知識を理解始めると言う。成長するにつれ、色々なものを俯瞰して立体的に物事を考えれるようになるそうだが、参考にはするものの、ピアジェが提唱した発達段階どおりに、子ども大人含め、みんなそれができるようになるとは私はあまり思っていない。人の発達は様々だ。

何が言いたいかと言うと、冒頭で出した算数の問題も、小学生で完全に習得できるかと言うと難しい子の方が多いと言うことだ。現に、私は小学生の時に、小さい数÷大きい数をする場合、納得はしてないけど仕方なくそうしていたし、大人になってから受けた知能検査で、立体視がめっぽう弱いということがわかる。なるほど、高2の時の空間ベクトルが全くできなかったのはそういうことか、と腑に落ちた。

しかし、分からないからと言って、それを避けよう、できることだけしようという態度を私たちは取らないようにしている。簡単な問題ばかり解いて、そこから抜け出せなくなってしまうのも、将来的に悩むことになるし、分からないなりに考えていただくことが大事だと思っているからだ。とりわけ、小学生の勉強においては、「できる」「点数をとる」ということよりも、「色々な思考回路を準備してあげる」ことを主眼に置いている。だから、私の塾の小学生は90分の時間で、国語に算数と、楽しみながらも、ずっとふんふん格闘してくれているので感謝している。


でも、私は心配症なので、勉強ができない状態が本人や親御さんにとって悩みになったり、バーンアウトしてしまったらどうしようと考えてしまうのである。昨今、早期教育の重要性も指摘されてるし、中学受験も加熱している。早く塾に来て、勉強に触れることはいいことなのかもしれないが、早くに行き詰まりを感じるケースも多いのである。その行き詰まりから、「自分は勉強が苦手だ」と決めてつけて欲しくないと思っている。そんなの悲しくない?先ほどと述べたように、勉強はやった量や地頭だけでなく、発達も大いに関係するからだ。


そもそも、その「勉強ができない」とはなんなんだろうか。


①内容が理解できない

②勉強のやり方がわからない

③ただやる気がない


生徒さんを見ていると、この3つに分かれる。実際の所、この3つにきれいに分かれるのではなく、3つが入り混じっていることが多いが、とりわけ①と②の場合、大人が「あんたは勉強が苦手だからね〜」みたいな声かけをしてレッテル貼りをしないでほしいなと思う。①は長期的な目で見る必要があるし、②は本人が悩んでることも多い。

私は、みんなが勉強できるようになるとは思っていない。残酷で嫌な表現をすると、この学生生活で勉強「においては」脱落する人だって少なくないと思う。①において、いくら努力しても、単位の変換で頭がいっぱいになってしまう人もいる。今言われている発達障害と診断されなくても、なかなかどうして、記号や言語の処理が難しい人だっている。

そんな人や勉強が嫌いな人に、勉強を全く避けるのは良くないが、がんばれ!努力しろ!というのは酷だし、その人のことをあまり見てないことになるのではないか。


そうなった時に、勉強じゃなくても生きていける方法、できれば楽しく、ということを考えるようになる。特に、発達障害やグレーゾーンで受け皿が少ない保護者さんも同じように考えていらっしゃるのかなと思う。


勉強じゃなくても、何をするにしても、スポーツや芸術とか、料理とか、はたまた、何もしないにしろ、大事な力。

ずっと考え続けてみたけれど、メタ認知・実行機能・ワーキングメモリ、この脳の3つの機能に、鍵があるように思う。

世の中、全く勉強と関係なさそうな分野で才を表す人が出てくる。そのような人を実際に見ていると、メタ認知・実行機能・ワーキングメモリが発達しており、この3つの機能をうまく使っているように思う。

自分に置き換えてみると、社会生活をせず、しばらくどういう生活をすればいいか分からなかった時期があるが、自分で自分を切り盛りしていくことを考えた時に、この三つの機能が役に立ったし、楽しく暮らせるようになったな、という心当たりがある。

更に、勉強を結構真面目にこなしているのに、停滞してしまって点数や偏差値が変わらないという時、この3つの機能を動かして取り組んでいない場合が多い。全く勉強してなかった子が、意を決して勉強を始めた時はスポンジのようになんでも吸収するので、成績はすぐに上昇するが、伸び悩む時期が出てくる。その時は勉強の量いうよりは、自分を冷静に分析し、知識を体系化し、優先度をつけ点数を取る勉強をしていくことが大事になってくる。

どんなスタイルで暮らすのであれ、このメタ認知・実行機能・ワーキングメモリは、きっと、とても大切なのだ。「ゲームでもなんでも好きなことをやればいい」と大人は言うが、その言葉を分析した場合、ただ依存的・直感的にゲームをするのではなく、ゲームを通じて、この3つの機能を深めれるのならばOKという条件付きを暗に加えて言っているような気がする。



一応、参考にした本

では、この3つの機能を促すにはどうすればいいのかというと、星の数ほど本がある。しかも、この3つの機能もこれも個人の発達度合いに対して得意不得意がでてくる。だから、生徒さんによって促し方も違うし、細かすぎるので割愛するが、私の塾では「今、なんでそう思ったん?」「今、なんでそうやったん?」という言葉が頻繁に出てくる。それは、何歳であってもだ。

今を踏み締め、自分を遠くからも近くからも、確認してもらっている。

生徒の方からすると「わーうざいなーヤレヤレ」という感じもあるのだろうな、と見ているが(しつこすぎるのはよくない)、自分のしたことに対していちいち、理由を聞いてもらって楽しそうにしている生徒さんもいる(かまってもらえて嬉しい的な感じかな)

また、今まであまり勉強から遠ざかっていたある子は「中島先生はごまかせないから」と言っていた。多分、彼のその後を踏まえて、その言葉の意味を考えると、ごまかせないから宿題をサボれない、のではなく、ごまかせないから「考える」ことをサボれないの意味だったのだろうな、と思う。


勉強には発達が関係し、長い目で見てあげること、そして勉強をしないという選択をとったとしても、塾では「メタ認知・実行機能・ワーキングメモリ」を勉強を通じて鍛えてあげたいということを長々と述べた。


小学生高学年から、勉強が複雑化するのと同時に、思春期にさしかかってきてわずらわしいこと、やりにくいこと、難しいことが増えてくるのだろうと思う。多分、高学年の生徒さんは「考える入口」に立っているのだろうと思う。

考えるにしても、色々なアプローチがあるが、算数の文章題にせよ仕事にせよ、「情報を分解する」ことから思考の一歩が始まる気がする。まずは、言葉や文章の構造・要素をふみしめ意味を類推することからスタートだと思っており、また考えるのは言葉を使うことから、国語の重要性を感じている日々である。算数や数学、理科の重要性が謳われており、職業的にも種類は多いのかもしれない。それはそうなんだろうと思う。しかし、まずその理系科目を取り組むにあたって、言語をしっかりと扱うベースがとても大事だということを強調したい。結局、国語も算数もどちらも侮れないなという感じである。


とにかく子どもたちに、たかが勉強のことで、辛くなって欲しくないというのが私の思いです。生きる力とか考える力、これは教育や子育てでよく出てくるが、具体的な意味を考え続け、応用していきたい。そして、読者様との、考えのすれ違い、ご容赦くださいませ。



夏休み、生徒さんとした花火。楽しかったな。