塾が廃業する時


   中学生と高校生の勉強を見させていただくと、2つのタイプに綺麗に分かれるなぁと最近思う。1つ目は、訓練の経験が多くなかった人、二つ目は思考の面で行き詰まりを感じる人である。


 一つ目の「訓練の経験があまり多くなかった人」というのは、「今は」勉強習慣が定着していないということである。定期試験の結果が実力へ反映されているとは思い難い場面が多かったので、しばらく比重は置いていなかったのだが、近ごろは入塾時の面談で必ず成績を伺うようにしている。なぜなら、定期試験の結果は実行機能がどれくらいその方についているかの目安であり、自分で計画を立て実行していくという力がある程度、反映されていると思ったからである。

 勉強じゃなくても、何かの習慣がないと中学入学後、小学生の時、保護者様に支えられていた車輪が一部外れ、スマートフォンを持ち、パーソナルスペースができた途端、ご自身の生活の采配が取れず、勉強もそうだが、生活面でも困り感が出ることがある。

 そうなると色々な心配事もでてくるので、塾ではご本人の「当たり前」を上げるように目標を設定する。その子の状況に合わせるので、やり方は色々ではあるが。

 今まで通塾経験のなかった方が、塾に休まず、毎週定期的に通うということも、小さなことかもしれないが、当たり前を上げていることにはなるし、学校の提出物を必ず出すよう手伝ったり、教科書ワークを5教科全部用意していただき、毎週ちょっとずつやって来るようにお約束していただいている。

 この「お約束」というのが大事で、保護者様を介さず、生徒さんと講師との一対一の信頼関係を成り立たせるのに必要なことで、大人への一歩の一つになるのでは、と思っている。

 そして講師の授業に慣れ、まだ余力がありそうな方には、私の授業を受けてもらうこともある。私の授業は、一単元に2倍時間をかけている。それは何回も繰り返して勉強内容を定着してもらうためだ。宿題も前日に一気にするのではなく、週に4日取り組んでもらうように日付を指定し小分けにして出させていただいている。ノートの取り方も、整理機能の向上の意図も込めて指導させていただくこともある。最初はプリントの繰り返しから、最後はご自分でノートを作成し「自習」できるスキルを磨いてもらえれば、との意図がある。

 最近は子どもの「意志」を大事にする風潮があり、私自身は自分の意志をことごとく無視された子ども時代だったので(昔の人はそうなのかも?!)、私もそれに概ね賛同するが、訓練は意志を大事にしていては進まないこともある。嫌がっても泣き喚いても、髪を引っ張ってでも無理矢理やらせろ、ということではなく、生徒さんと会話していると、まず意志や拒否の感情すら芽生えていないことが勉強に対してはとりわけ多いからだ。よく考えてみて欲しい。あなたは高校卒業までに勉強がしたい。と思ったことはありますか?少なくとも私はほとんどないです

 大人になってから勉強したいと思うことはよくあるが、それを待っていると勉強開始が40歳や60歳とかになってしまう。

 何においても習慣をつける、訓練をするということは、その人の免疫や耐性、体力をつけることであり、それはあらゆることに応用され、最終的にレジリエンス(回復力・しなやかさ)に繋がっていく。だから訳も分からず取り組んでみる・それを継続するということは案外大事なのだなと近頃思う。

 なので、たまに中学受験や早期教育に取り組ませる親御さんへ「子どもがかわいそう」というような声を向けられることがあるが、お子さんとのある程度の認識の共有があり、親御さんにコンセプトとその時々の軌道修正や振り返りがあるのならば、批判など気にしなくていいと思う。

 そして、訓練をご家庭でも思案されるならば、最初は自分が寝たあとの布団を整えてもらうことなどの簡単なことから、学校の宿題をこなすとかそんなことでいいような気がする。また、小学生の頃にもし何かで勉強面でお考えになるのであれば、公文や学研は案外いいですよ、と言いたい。向き不向きもありますが。実際、私の授業は、生徒さんとの関わり始めは、公文の形態に近いかもしれない。


 2つ目の思考で息詰まる人、というのは簡単に言えば、勉強を頑張っていても伸び悩んでしまう人のことであり、こちらは指導するのにあたってとてもとても難しい課題だなと毎回感じている。しかし、生徒さんを観察していると2つの課題が浮かんでくる。


 それは、

 ①ポイントを押さえて(要約して)、応用できない

 ②頭の中に具体化の材料が少ない

 である。


 ①のポイントを押さえて(要約して)応用できないに関しては、木を見て森を見ずという言葉があるが、俯瞰の視点の取得が難しく、ある問題・ある範囲はこなせるが、他のものに応用できないという状態である。先述したような訓練を積んだ方が、できる範囲やコト・モノが広がったものの、他のことに適用するのが難しいというのは往々にしてある。なので、ひっかけ問題や問題文の日本語が難しい設問、問題の意図にベールがある問題だと、容易く勘念し白紙になるということが出てくる。

 自転車に乗ることを想像して欲しい。自転車を乗るにはいくつかの技術(ポイント)があり、それは自転車を漕ぐ脚力、バランスをとる力、視覚聴覚を使って方向変換・停止である。それをどの道路や場所でも応用しているだけだ。

 おそらく①のパターンは、要約する力と相手の意図を解読する力が必要であり、塾では読んだ文をどんな内容だったか説明してもらったり、わざと意図が読みにくい問題を多めにやってもらったりする。

 家庭で何かできることはありませんか?と聞かれたら、学校でやった体育の授業でした競技を「お父さんやお母さんにも教えて欲しいな!」とルールを説明してもらったり、何か説明してもらうのがいいのかもしれない(多分です…)。前から、個人的に疑問に思っていたのだが、情緒や表現力を富ませるためとは言え、子どもに感想を聞くって大事だけど難しいと思いませんか。

 子どもというのはボキャブラリーが発展途上にあるから「楽しかった」「おもしろかった」に集約されるような気がする。そうなるとそれ以上、会話を引き出すのも難しいし、もっと感想を述べよ、と言われても子どもも苦し紛れに答えているのではないか?と思う。説明をしてもらったら、手順ごとに、その時どんな感じやったん?などの会話も増えるし、お子さんも答えやすいのかもしれない。


 ②の具体化の材料が少ないは、例えなどを使って自分のわかりやすいように噛み砕き、覚えたり理解するのが難しい、につながっているような気がする。そうなるとやり方を身につけたり、文章を理解するのに時間がかかり、問題を解くのが極端に遅い、ということが出てくる(これは反復が足りていないという要因もあるかもしれないが)

 具体性を上げるというのは、まずは知識量を増やすのも一つの手ではあり、本や映画はもちろんのこと、授業内で雑談するのって大事だなぁと感じている。大人がまだ子どもの経験したことのない世界をおもしろく話すと大体の生徒さんは笑ってくれるし、「あの先生が言ってた」という関連付けもつくので知識がつきやすい。この前は、私がメルカリでクレソンを購入している、という話をしたら生徒さんが笑ってくれた(農作物についての英作文を解いている時に話しました)

 だから、お子さんにいろいろな雑談をしてあげたり、お子さんが習い事をするのも大切かもしれないけれど、親御さん自身が趣味を優先することはいいことのように私は思う(優先しすぎて家庭崩壊とかはダメかもしれないけど、泣)


 以上、長々と2つのパターンについて述べたが、訓練の話は実行機能、思考の話はメタ認知が大きく関わっているのだろうと思う。結局、勉強の核は「主観から客観へ抜けていくこと」なのではないか。

 自分の基準を、外の基準と照らし合わせることであり、自分のやりやすさや自己流の考えばかりに固執していては、勉強面では早々に息詰まることが多い。自分の快ばかりを優先するのではなく、ざらざらとしたやりにくさ、不快や違和感を知って始めて、客観の世界へ抜けていくのだと思う。そうなると、頭を抱えるのも事実なのである。

 なぜなら、現代の子どもというのは、コスパ・タイパ・自己肯定感に溢れた社会の申し子たちであり、嫌なことや不快なことは省略する、省略させる傾向にあるように思う(良い点もあるが)。YouTube2倍速で見れるし、何か作りたいと思ったらキットがある。豊かになった一方で、コロナ禍や都市集中のせいで、大人が関与しない、子どもたちだけの世界で、手触りを感じながら、遊ぶ体験は富に減っている。

 また、自分を大切にしようとする、自己肯定感を高める行為が、自分の世界だけで完結してしまうと、他の人や外の世界を想像することをいつからか、やめてしまう。他の人や外の世界を想像することは自分より相手の気持ちを優先することがでて来、それは時に面倒で、不快さえ伴うことがある。自己肯定感は自分の幸せを願うことと周りの幸せを願うことが繋がって、バランスの取れた心の感覚だと、私は思うのだが、近頃一人歩きした自己肯定感は、そのメッセージを欠く印象がある。

 訓練をすることと主観から客観への移動は不快や違和感が必ず伴う(たまにそれがすっとできるお子さんもいるにはいるのだけれど)。かと言って、私は昔の黙ってついて来い!我慢や忍耐偏重の教育は何かが違うよなぁという感想も持っているので、大人として責任を持って、生徒さんがまだ、飲み込みやすい違和感を噛み砕いて与えていきたいと思う。

 と、かっこよく言ったものの、個人的には、わざわざ不快なことや違和感なんて感じなくていいじゃない、そのままのあなたで素晴らしいよ、と思っている。時に叱っても一生懸命頑張る生徒さんを見て、おこがましい言葉で申し訳ないが、健気であるし、そのままでいてほしいなと、矛盾した気持ちになる。

 しかも、それなりに生きると、訓練や思考が深まっても解決するどころか、もっと苦悩することも出る。「訓練や思考なんて鍛えてなんになるわけ?」と質問されると、結構答えに詰まる自分がいる。

 ただ、訓練に関しては、山登りをして山頂で食べるカップラーメンは美味しいよ、ということが言いたい。家の電気ポットで沸かして食べるカップラーメンもおいしいけれど、苦労して登った清々しい山の上で食べるカップラーメンもとてもおいしいんだよ、と。どちらがいいとかじゃなくて、どっちもおいしいと言うことを知ってもらえたらなと思う。

 また、思考においては、「考える」という言葉の対義語は「考えない」だと思うが、もう一つの対義語として、私は「とらわれない」だと思う。考えるに対し、考えないことを仕分けしたり、休止することも同じくらい大切である。しかし、苦しんだのち、あるがままを受け入れることのできる「とらわれない」という状態はとても素敵なことだし理想だなぁと思うのである。


 訓練と思考を手に入れた時、人はより自由に大きく動けるのかもしれない。そしてみんながそれをできるノウハウが見つかれば、塾業界はいつかなくなるのではないか。自分一人で勉強できるからだ。そうなって欲しいなと思う。

 自分の話にはなるが、私は中学生の時に同じ塾に通っていた同級生が、少しずつ計画を立てて勉強してるのを見て「なんか楽しそうやな」と思い、そこから勉強をまじめに取り組み始めた。その後、勉強は伸び、そして伸び悩み、怠惰な浪人生活を送りそのまま歳をとったのであるが、そんな中、中島と知り合う。いつも具体的に理由や説明をすることを求められるし、「消費者のままでいるな、参加者であれ」というメッセージを常に受け取っている気がする。面倒だなぁと毎回思うものの、どういう時に自分がこれをいいと思うのか、周りは今、どういう状況なのかというような主観と客観のバランスを持った思考は鍛えられた気がする。歳をとったのもあるけれど、今の方が勉強にしてもその他のことにせよ、不出来な人間ながら、対応力は飛躍的に伸びたことは胸を張って言える。もしかしたら塾というのは、勉強の場ではなく、出会いの場なのかもしれない。

 

 

私が証明です、イラスト