4月もどうぞよろしくお願いいたします



 

 大人にせよ子どもにせよ発達障害という言葉が昨今、だいぶと話題に上がるようになった思うが、やはり難しいなと思うことが多い。それは、定型発達と非定型発達は何が違うのか、発達障害の子の進路をどうするのか、そしてどのように時間を共有していくのか、主にこの三点である。


定型と非定型の何が違うのかと言われると、DSM-5に記されている基準を満たしていたり、ADHD-RSなどのスクリーニングテストで判明するというのが具体的には分かりやすいかと思う。しかし、そのテストで判明したからと言って、その人自身の環境に、たまたまであれ、ある程度フィットしているのならば困る程度は小さく、障害も取るに足りないものという認識となるのかもしれない。そうなれば、「発達障害やねん」「俺もあるし大丈夫やって」「発達障害なんてみんなそうやって」というような会話が生じる。このような会話は当事者やその関係者はよく経験されるかと思うが、励まされる一方、ご本人の心に暗く影を落とすこともある。では「みんなが発達障害」である世の中、「正真正銘の発達障害」とは誰でありどういう状況なのか。色々な定義があると思うし、それに関してはまだ思案するところではあるが、一言で言うと「実生活の中で困っていることがある状態」だと思う。例えば、忘れ物を頻繁にし上司に怒られたり、視力というよりは物の輪郭や詳細をはっきり捉えることができなくて字が書きにくいだとか、時間感覚があまりないから遅刻してしまうとか、書ききれない程の現象があり、その多様な様にいつも驚かされる次第である。

今回は発達障害で大まかにまとめています。ご勘弁を。


 話が巡回するようで申し訳ないが、普段接する大人にせよ、塾の生徒さんにせよ、軽度であれ、そういう状況は多々存在する。勉強が苦手で理解力がないというよりは、文字や図を細やかに捉えるのが難しかったり、不注意でケアレスミスが起こったりというのは、いわゆる定型発達、通常学級に属している子でも数はかなりいるのではないかと見ている。

 しかし、でもまぁ大丈夫という風になるのは、その人が「大まかには」環境に適応できていたり、フィットしているからかなと思う。

 となると発達障害の人、子どもにはそれなりにフィットできる環境を整えることも大切であり、デイサービスや通級などの支援、学習教材の選択肢も多種多様となってきたと思うが(選ぶのも非常に難しいですよね)、中学生に上がるにあたっての進路に関してはまだまだ拓かれていないなぁと最近思ったりした。

 児童が進学するにあたり、考えられるのは①公立中学に行く②地元以外の公立中へ越境入学をする③中学受験をする④その他、大まかに言えばこの4つとなる。大阪府内の公立中に関しては、通級を設置している学校数は、小学校よりもぐっと減る(データPDF3枚目)。それは成長につれて、そのお子さんの困りごと事態が軽減され通常学級に在籍する方も出てくるかもしれないが、私が見聞きしている範囲では困っているお子さんは少なくなく、フォローの体制があまり整っていないように感じている。②に関して、理解をまだ示してもらえる学校であったり、生徒数が少ない学校などを選んだりとの目的から越境入学を考えられる保護者様もいらっしゃるが、その要件も厳しいように思う。となると、中学受験を検討するor薦められる親御さんもいらっしゃるが、薦められた親御さんはまさに青天の霹靂である。公立中学にそのままあがるしかない、あがれるといいな、と考えていらっしゃっただろうし、ましてや保護者様の世代では「中学受験=勉強が得意な子がするもの」というイメージがあるからなのか(というか私もそう思っていた)、我が子が中学受験?!とびっくりされるだろうなと察する。そこからお子さんに合った学校選び、費用の問題、何よりお子さんに寄り添って勉強するのは、かなりハードな作業となる。勉強が得意であったり、もともと受験を検討されていた親御さんでさえも大変だというのに。

 そして最後の④は不登校となり、インターナショナルスクールや通信制の中学、適応指導教室などの選択肢が上がってくる。(不登校を挟まなくても、この選択肢があがるご家庭もいらっしゃるだろうが、稀なケースな気もする)。すこし話はずれるが、不登校は大変だなとやはり私は思う。それは恥ずかしいとか、勉強が遅れて大変だとか、そういうことではない。私自身、塾を始める前までは「学校に行かないのなら、何か他に好きなことをしたり、別の選択肢を選べばいいだろう」くらいに思っていた。が、学校に行けない、行かない子というのは、以前も書いたが「エネルギーが切れてしまった子」も少なくないし、当人も学校は行くものと、入学していた当初は、ぼんやりと思っていただろうなと想像する。誰がサラピンの制服を着て学校には絶対に行かないだろうな、と思うよ。そんな中、学校という選択肢が一時的であれ、抜けてしまった途端、他の選択肢を考えなさいというのもまた難しい話であり、何より元気がないことが多い。昔、自分自身、伏せっていた時に「働けないのならボランティアに行けば?」というお声をいただいたことがあるが、「元気があれば働きに行ってるし、何かしてるでしょ」と知り合いが怒ってくれた。その時の自分は、なんか嫌だなーとぼんやり思ったが、確かに、その知人が言った通りだなと思う。元気があれば学校に行っているだろうし、働いているでしょ。って感じですよね。もしくは、他の何かを見つける、であるが、そんなものが簡単に見つかったら全国の不登校の親は苦労はしないだろうなと思う。不登校になると、家に居ざるを得ない事が多いので、親御さんはおちおち働きに行くことも難しいし、ずっと気になるものだと思う。不登校が恥ずかしいと思うのも、無理もないように私は思う。不登校が増えているとは言え、日本は一億人の少ない人口の社会であり、何が言いたいかと言うと、村社会になりやすい側面もあるのかもしれないなぁと。何かと周りを気遣う事が求められるし、お行儀よくしていることが良い事が大体の通念とする中で、他と違う、増してや100%不登校が恥ずかしくないといえる親や子どもはどれくらいいるのだろうなと思う。それも自然と存在する感情なのではないかと思う。


 となると一緒にどう時間を共有すればいいのか。それは親御さんだけではなく、私自身のテーマであり、当事者ご本人のテーマでもある。自分とどう関わっていくか。自分の不便さや不器用さとどう関わっていくのか、なんだろうなと思う。

 発達障害だとか、困っている人というのにも先述した通り、多種多様であり、状況をポジティブに捉えているかも違う。

 学術的でもなく、個人的なざっくりした捉え方を披露するのも迷うが、発達障害というのは「エネルギーをうまく分散できない」ないし「エネルギー配分に偏りがある」なのではないかなと最近思う事がある。だから物事に過集中であったり、一方で不注意であったり、拘りが強かったり、というような事が起こるのかもしれない。

 そしてこの特性は、一緒に工夫する事で困り感が少なくなることもあるが、その特性を加速させることもある。

 今さらながらここで吐露するが、私は過集中かつ拘りが強く、その特性の強さは元来の性質だけではなく、二次的なものでもあるのではないかと近頃考える。それは現実世界では適応するのが難しいがゆえに、自分の身の回りのものは自分の世界で埋めてしまいたいのだろうし、過集中なのは苦手なことが多いがために、速くやって早く終わらせたいと焦るがゆえのこともあるからだろうなと思う。元々癇癪を起こしやすい性質も、周りとの付き合いや本人のどうしても突破できないことにぶつかることでフラストレーションが溜まる。そして余計怒りやすくなり疲れやすい。疲れている人は誰だって怒りやすい。

 そしてICT技術が当たり前になった今、その発達障害「的な」特性は加速しやすいように思う。好きなものはどんどんAIがサジェストしてくれて知識は深まるし、苦手なものは感覚的にこなせるような仕様になっているように、余計に不注意となりやすい。当事者の一人である私の目にはそのように写っている。

 で、どう発達障害、どう不登校、どう我が子と関わるのか、時間を共有するのかという話は、今のところ私には明確な答えはない。その辛さに対して共感したり、見守ったり、できたことを褒めたりするのも大切だし、苦手なこととうまく付き合う工夫を一緒に考えたり、時には負荷をかけて訓練することも全て大事だ。それをどうやればいいのかなんて、その子によるし、タイミングも違う。

 自分自身も今日は大丈夫だと思うこともあるし、はぁ、今日は死にたいくらい辛いと思うこともある。そんなジェットコースターのような感情の起伏を周りが見分けてサポートすることは非常に難しいことなのだろうなと思う。

 何が言いたいかというと子育てとか指導って「難しい」ってことが言いたかった。難しいからと言って、子どもをマルトリートメントするわけにはいかないが、それくらい難しいことをしているのだろうと思う。ずっと親子で友だちのような関係でいれたらいいと思うし、私だって生徒さんとずっと楽しいことばかりしていれればどんなにいいかと思うが、そればかりではいけず、大人は大人の仮面を被らないといけない時があり、なかなか大人というのは切ないものだなと思うことがある。

 そしてだいぶと自分の扱いが上手くなった自分でのことでさえ、こんな時に疲れが襲ってくるのか、とか、こんな時までメタに自分を解釈するのかとうんざり瞬間は日々生じる。扱いがそれなりに上手くなり、メタな自分が出すぎるのも考えものであり、時にはもっとぼんやり闇雲に生きたらいいのに…(例えば海に向かって叫ぶとか泣きながら自転車を漕ぐとか、ぱっとは思いつかないがそんなことかな…)と自分へ思うことさえある。

 特にまとまりのないブログになってしまったが、それはそうで、どんな状況であれどんな人であれ、色々と疲れることも多いよね、という事がただ書きたかった。そして発達障害のことに関しては、少しではあるが、共有できることがあり、いわば私は失敗の総合デパートなので、今までの失敗や得てきた知識などを少しだけでもお子さんや保護者様と共有できたらいいなと思う次第である。発達や知覚というのはどんな人でも大きく生活や学習に大きく関わっているのだなぁと生徒さんと関わって深く感じることの一つである。

 耳障りのいいようなことを言って励ますつもりはないし、楽しいことをいつもしていればいいと言うわけでのないだろうという考え方の私ではあるが、でもみんなでいつか楽しいことを一緒にしたり、なんか生きてて良かったなーとぼんやりとでも自分を含め他の人になってもらえたらなと思う。

 また、子どもがいない私でさえ、教育費に国は、あまりお金を使ってくれていないのではないかと思う。通級の教室は増えてくれたらいいなと思うし、塾をやってて言うのもなんだが、子どもの体験をなんでもサービス化するのはいかがなものかと個人的には思っている。そのサービスのためのお金を稼ぐために親子の時間が少なくなるじゃないですか。色んな人と会話することってとっても大事なことなのに。習い事や勉強ばかりでもうまくいかないことも多いのだし、と親に教育費など色々とかけてもらった「歩くお金」の私は思います(苦笑してください)


 ということで4月からもどうぞよろしくお願いいたします。

 


生野区のマルキタさんというお肉屋さんはとても美味しいです。
もしくるーむ周辺来られることありましたら、お立ち寄りください。
水曜日、日曜日が定休です。